諸行無常と平清盛は言った
5年くらい通い続けたエステサロンが、ついに閉店してしまうらしい。
せっかく上京するしついでにと、久々に予約を取ったのが半月前。県をまたがないといけないため滅多に行けないが、それでも予約の時点では何も変わったところはなかった。
店に入り、お金を払い、施術を受け、終わって水を1杯もらうまでいつもと同じ。
そしていつもならば、次の来店の目安を教えてもらうのだが、今回はそれを言われなかった。
「年内でクローズする可能性が高く、新年の予約はまだ受け付けていないんです」
と。
私は最後(かもしれない)の来店なのに、これまでのお礼も悔やむ気持ちも何も言えないまま、まるで次があるかのように挨拶をして店を出た。
驚きすぎたのか、と問われると正直そうとも言えない。というのも、チェーン店ほど流行るような場所でもないし、お客さんが溢れて予約が取れないといったこともないから、ある種予測がついたことでもあったからだ。
でも、まさか本当になるとは微塵も思っていなかったことで、「その店が閉店すること」というよりも「当たり前にあった店がなくなること」にショックを受けていた。
始めに5年くらい通った、と書いたが、本当に長く通ったサロンだった。
大学3年生の頃に通い始めたため、今が6年めくらいだろうか。当時は東京に住んでいたためそこで契約して、大学時代は頻繁に通っていた。就活スーツで伺ったこともある。引っ越しをして、関東圏内とはいえ通えなくなってしまったが、それでも年1~2回行くようにしていた。
実際とても信頼していたし、新規で店を探す気力も今はない。
でもそれは悲しみというより、どちらかというと、一種の「空しさ」であるように思う。
「当たり前の日常」から引き算されてしまう、「当たり前に行くことができる店」
その引かれた部分がこの空しさなのだ。
だからまた別の店で埋めればいい。もしくは「エステに通うこと」を思い切ってやめて、別のことで満たせばいい。
そしてこの「変化」はいずれ「日常」に馴染んでいく。
私たちは常日頃から変化を目にしている。
あ、ここにあった店なくなったんだ。
前こんな店だったっけ?
前にあったのなんだったっけ…
……
…
新しい景色だということはわかるが、今までずっと見ていたはずの景色が思い出せない。
ついにはその道を通るたびにあ、ここ新しい店だ~でも前なんだったっけなどと話してしまい、友人に「前も同じこと言ってた」と指摘されてしまう始末。
記憶力がおばあちゃん。闇である。
変化の瞬間に立ち会うことは、その変化の只中にいる人たちの感情を少し共有せざるをえなくて、第三者なのに無理やり関係を持たされた気分になる。
でも、ちょっとでも関わりがあったはずなのに何も知らずに「変わったんだな」と一瞬思ってまた忘れ、そのうち話題にも出さなくなるよりは、少しはましかもしれない。